2017年04月18日

誰もが第三の人生を有意義に過ごせるわけではない

生まれてから、誰か(親など)に依存して生きる青少年が第一の人生であるならば、自分のことは自分で責任を持つ自己責任期が第二の人生となる。

そして、第三の人生は、老年期。すなわち、家族や職場などの社会コミュニティで果たすべき役割を終えてから死に至るまでの時期をいうのだろう。

そうするとオイラは、まさに「第三の人生」に突入だ。しかし第三グループのなかでは新米のピヨピヨに過ぎぬ。先輩、大先輩たちがわんさかとおられるのだ。

第三の人生をどう生きるのか。

その答えが見つからぬまま、否、見てみないふりをしている人も多い。あるいは、そんな余裕はないのだとばかりに、日々の暮らしに追われている高齢者たちもいる。

そんな人たちを見るときに、おいらは、その人の第一の人生を思う。

もしかしたら彼は、同級生にモテモテの紅顔の美少年だったかもしれぬ。あちらの女性は、夢多き乙女らしさを発揮したクラスのマドンナだったかもしれぬ。

夜の商店街を寝床にする彼の少年時代は、もしかしたら貧乏暮らしのなかで、家族を支えるために新聞配達に明け暮れたのかもしれぬ。それとも、町で顰蹙の悪ガキだったか、品行方正なお坊ちゃんか。

いずれにせよ、第一の人生を歩む彼らには、未来があった。

具体的にだろうと漠然とだろうと、なんらかの人生を選択する力があった。しかし、彼らは、自身の第三の人生の行方など、想像すらしなかった。なかには、素晴らしき第二の人生を過ごした後に、すべてを失ってしまった人もいるだろう。

人生にとって、一番大切な時期は、いったいどれだろう。

第一、第二が良くとも、死に至る第三が、満足できるものでなかったとしたら、いったい、彼、彼女らの素晴らしき少年時代、壮年時代に、どれほどの意味があるというのだろう。

実は、第三の人生に足を突っ込んだオイラと、第二の人生を歩いていた時のオイラには大きな差がある。それは、想像力だ。今、間違いなくイマジネーションの力が失われている。これもまた老化の一つであるとするならば、老害にならぬよう、世間の邪魔をしないよう遠慮しつつ、同時に、身の丈に応じつつも、第一、第二世代に対して、少しでも役に立てるような善を積みあげていけばいい。

そうすれば死は、自然に訪れるだろう。
posted by 中庸 at 16:02| 沖縄 ☔| 考えさせられる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする